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感動!「教育を通して国づくりに貢献した20年」モザンビーク派遣員宝山晶子さんの記事をUPしました。

 
WFWPボランティア活動報告 モザンビーク派遣員:宝山晶子


  • モザンビーク派遣員:宝山晶子
    モザンビーク派遣員:宝山晶子


  • モザンビークの「太陽中学校」が
    開校した当時の授業風景(1995年)


  • 笑顔の生徒たち

     

  • 現在の校舎


  • 7000冊近い蔵書を備えた図書館


【教育を通して国づくりに貢献した20年】
・内戦で荒廃したモザンビークで教育支援プロジェクト
・中学・高校を開校し、貧困家庭の子供たちに機会提供
・長女の事故死乗り越え、現地に教育の基盤を
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■モザンビーク■
 1994年6月、私はモザンビークの首都マプトに着きました。
飛行機のタラップを降りるや、空港を背景に友人を撮影したら、警察がきてカメラを没収。空港は戦略拠点で、撮影は禁止されていたのです。
市内には白い車体にNUとポルトガル語で書かれた国連平和維持軍(PKO)の車両が行き交い、内戦終結後初の総選挙を控え、国際選挙監視団も続々と到着していました。

★2大都市でアンケート/教育への強い要望知る
 モザンビークは1975年、長い植民地時代を経てポルトガルから独立しましたが、その直後、内戦が勃発したのです。ソ連はじめ東側諸国が支援するモザンビーク解放戦線と、近隣白人政権や西側諸国が支援するモザンビーク民族抵抗運動が16年間にわたって戦闘を繰り広げました。

 東西の代理戦争で、死者100万人、難民500万人を出し、“アフリカで最も悲惨な戦争”と言われたほどです。92年に停戦協定が調印されました。私たちが入国する2年前のことです。

 16年間の内戦の爪跡は深く、首都マプトから第2の都市ベイラに延びる幹線道路は穴ぼこだらけで、道路の両側には、戦車の残骸や焼打ちにあったバスが放置されていました。鉄道や送電線などのインフラも破壊されたまま。植民地時代に建てられた公立中学校には机やいすはなく、窓ガラスは全壊、壁には共産革命家チェ・ゲバラが描かれるなどすさまじい荒廃ぶりでした。

 文字通り、世界最貧国に陥っていたこの国で、私たちWFWP派遣員10人がまず行なったのはマプトとベイラの2大都市で教育に関するアンケートです。習い始めたポルトガル語で道行く人々に質問し、800人以上から回答を得ました。その結果わかったのは、大多数の親が子供たちの教育に関心を持ち、一般教育はもとより衛生教育や宗教教育も望んでいたことです。さらに、不足している学校の建設を切望していました。

 そこで私たちは翌95年、ベイラ市で中学校を開校。名前は「モザンビークの太陽中学校」。わらぶき屋根の粗末な学校でしたが、文句をいう人は誰もいませんでした。「木の下でもいいから学校を」という要望が強かったからです。


  ★中学に続き高校を開校/大学合格者輩出で注目
 開校当初の生徒数は44人。教師たちは近くの公立校からアルバイトで雇いました。翌年には生徒数を120人、翌々年には180人に増やしました。月謝は極力抑え、運営費の8割以上が日本からの支援金でした。97年から本格的に学校建設にとりかかり、最初に手がけたのが、モザンビークで最も著名な画家マランガターナ氏に描いてもらったデッサンを日本でTシャツにプリントして販売することでした。

 WFWPのいくつかの連合会でも販売を引き受けてもらい、数千枚を売り上げ、学校建設費に充てることができました。また、WFWP本部はじめ多くの方々から支援金をいただき、98年末には新校舎が完成しました。開所式の模様はモザンビークテレビが繰り返し放映しました。

 2001年には高校を開校。生徒募集のビラを配ったら、学校不足で自宅待機を余儀なくされていた優秀な青年たちがたくさん応募してきました。7教室を午前と午後の2交替で使い、図書室を増築して生徒の学力向上をめざしました。  当時、高校の教科書はなく、参考書も輸入されたものが首都マプトの書店にあるだけで、1冊数千円もしました。ブラジルの参考書はポルトガル語が平易で、よくまとまっており、生徒たちには人気でした。そこで、ブラジルから参考書を多数取り寄せ、それらを毎朝3時からコピーして増やし続けました。現在、蔵書は7000冊近くになります。

 2004年から国立大学合格者が増えはじめました。最難関のエドアルド・モンドラーネ大学の医学部、工学部、理学部などに10名近くが合格した年もあります。また、地元ベイラ市の教育大学には、多数の合格者を出してきました。生徒数600名規模の小さな私立学校から大勢の大学合格者を出していると次第に評判になり、当時の知事(のちの首相)が訪問したいといってきたこともあります。こうした実績を基盤に、2008年には、教育省から私立学校で最高ランクに認定されました。

 ★職員、教師への給与支/払い遅延は一度もない
 さらに、増え始めた大学合格者のために、奨学金の支給を始めました。最難関のエドアルド・モンドラーネ大学は首都マプトにあり、貧困家庭出身の当校の学生たちにとっては下宿代や食費は相当の負担でした。心配なく大学生活が送れるようにと、毎月30~70ドル(3000円~7000円)を支援。このWFWP奨学金制度を2012年まで9年間続けました。  奨学生たちは、現在すでに大学を卒業し、医師(2名)、大学講師(6名)、大学院生(2名)、建築、電気、石油、化学関連企業の技師(12名)、国連職員(1名)、海外留学者(3名)になっており、国内の重要部門はもとより、サウジアラビア、マレーシア、インド、ブラジルなどで活躍しています。

 近年は毎年550名前後が学んでおり、開校から現在までの生徒総数は9000名を超えました。そのうち、国立大学合格者は400名近くにのぼっています。さらに、海外の大学(学士課程)への国費留学者が毎年出ており、とくにマレーシアの工科大学にはこれまで8名が入学しています。

 教師の数は40名前後で、多くがまじめで質が高いです。このことが、生徒の学力向上と人格形成に大きく貢献していることは言うまでもありません。職員は15名ほどで、教師と職員をあわせると55名ほどになります。給与の支払いは派遣員の重要な仕事で、開校以来、支払いを遅らせたことは一度もありません。職員の給与は、労働省が毎年公表する最低賃金にもとづいて支払っています。

 学校側(WFWP)と生徒との関係でも、約束ごとは必ず守るようにしてきました。たとえば、通信簿をこの日に渡すと発表したならその約束の期日を厳守、子供だからと約束を引き延ばしたりはしないようにしたのです。そのため生徒たちからも信頼されています。

 ★中高生たちも明確な/ビジョン持てる時代
 私たちの活動は、貧困家庭出身者でも勉学に意欲のある生徒たちの育成を目的としています。そのため、月謝を安く抑えてきました。今年度は200MT(メティカル=通貨、650円)。おそらく、モザンビークの私立学校で最も安い月謝でしょう。生徒たちのなかで両親がそろっているのは5割弱にすぎず、半数以上が両親もしくは片親を亡くしています。高校生ともなると両親がそろっている生徒はもっと少なくなります。マラリア、エイズ、結核、下痢性の疾患などで亡くなっています。

 近年、モザンビークは経済成長が著しく、成長率は7%近くにのぼっています。とくに北部海域で世界最大級の天然ガスが発見されたり、良質の石炭や希少金属の大鉱脈が次々に発見され、外国の大手企業の参入が相次いでいます。このため、モザンビーク政府にとっては自国の技師の養成が急務で、国立大学に石油工学系の学部を新設したり、奨学金を出して海外の大学への留学を奨励しています。

 当校でも、5、6年前までは医学部進学が花形でしたが、いまや工学部や地質学部などがそれにとって代わっています。高校生の成績上位者のほとんどが工学部進学を希望しており、とくに海外の大学への国費留学をめざしています。これまで国が貧しく、将来に希望が見えなかった中高校生たちも、明確なビジョンがもてる時代を迎えたといえるでしょう。  この国の労働者は、ポルトガル植民地時代に教育をうけているのですが、ほとんどが小学4年生どまり。電気を恐れ、蛍光灯の交換さえ難しいのが実情です。十分な基礎教育がなされた社会の基盤があってこそ国が発展でき、教育抜きには国の未来は語れないと実感しています。

 教育には長い時間が必要です。一人の子供を育てるにも20年もの長い時間が必要なのと同じです。モザンビークでのWFWPの活動も20年が経ちましたが、アフリカの9000人の生徒に基礎教育を施すという価値ある歳月だったと思います。

★長女の事故死乗り越え/教育プロジェクト推進
 もちろん、今日まで派遣員としてアフリカで活動することは容易ではありませんでした。私には3人の幼い子女がいましたが、夫に任せて日本を発ちました。3か月もすると無性に子供たちに会いたくなり、夜半の3時には枕をぬらす日々でした。そのとき、アフリカの奴隷に思いをはせました。私は電話やFAXで家族と交信できますが、奴隷たちは家族と永遠の別離を強いられたのです。モザンビークには200万人の奴隷がいたといわれています。

 また、日本女性が内戦終結後間もないアフリカの国で生きていくのは、容易ではありませんでした。治安が非常に悪く、自宅で4回強盗に襲われました。そのうち2回は6人以上の集団強盗でした。手足を縛られ、さるぐつわをかまされ、顔面を何度もなぐられました。ピストル強盗も2回。いまこうして生きているのが不思議なほどです。  初の総選挙が行なわれた94年10月、日本に残してきた7歳の長女が事故に遭い、危篤になりました。選挙の前日でしたが、私は急きょアフリカを縦断する飛行機に乗り帰国。機内では息苦しく、窒息しそうでした。再会した長女はすでに意識がなく、亡くなるまでの6か月間、主人と交代で看護しました。

 亡くなる数日前、長女は清楚な姿で夢に現れ、「お母さん、私は大丈夫。アフリカで頑張って」と言ってくれたのです。ここまでアフリカで活動を続けてこられたのも、そのときみた夢が原動力になっています。

  末筆ながら、今日までWFWP日本本部のたゆまぬ内外の支えと、数多くの連合会の支援、そして理解ある多くの日本の皆様の支えがあってこそ、アフリカで教育支援プロジェクトが成し遂げられたことを誌面をもって感謝をささげます。
(WFWPモザンビーク派遣員:宝山晶子)


 

 
 

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